1992年12月10日版(第36号) 法政多摩キャンパスライフ
● 故郷賛歌 ●
おじいさんのそのまたおじいさんは、神山(じんやま)という集落に住んでおった。岡野内なぞという名字は、そのまたおじいさんくらいの時に、一宿一飯の恩返しに、旅の乞食坊主がおいて行ったものだそうな。
明治の世の中になって、峠ひとつ越えた海辺の村、呉に海軍のお役所やら工場やらができた。おじいさんのそのまたおじいさんは、余ったお米を、軍人さんや人足やらでごったがえす呉に売りにいくことを考えた。力持ちで有名だったその息子は、はじめて俵をかついで売りに出た。やがて大八車を引き、そのうちに店を構えた。
米騒動の頃には、呉市内でも有数の米問屋になっていた。帝国海軍ご用達であったために、騒動のときには兵隊が出動し、打ち壊しを免れたという。おばあちゃんは、十七くらいで嫁に来たのだが、十数人の奉公人がおって、朝も暗いうちから起きて、ごそごそ働いとった、そうだ。
1945年、B29の大編隊が焼い弾の雨を降らせた。呉市内は、完璧な焼けの原になった。帝国海軍の高射砲の弾は「あがいなもん、あたりゃあせん」かった。おやじは、学徒動員から帰って、焼けの原を見た。それは、「何もないんじゃ。気持ちええくらいじゃった」
二十歳そこそこのおやじと、四十そこそこのおじいちゃんとは、進駐軍のジープが走る焼け跡の中で、山の柿を取って来て売るような果物屋から始めて、駄菓子屋、豆菓子製造業を経て菓子問屋になった。高度成長の始まる頃、おやじは、呉の沖合の島、倉橋島の桂が浜に土地を買い、夏の間だけ、海の家を始めた。
だから、ものごころついたころのぼくの夏は、桂が浜の白砂青松だった。おやじは、昼の間は呉で菓子問屋をやり、夜になるとできたばかりの音戸大橋を渡って家族のいる桂が浜に帰った。稼ぎ時の土日はとにかく忙しい。小学生になったぼくは、シャワー室や駐車場の料金取り、酒やつまみのウェイター、ゴミ処理から便所掃除の手伝いまで何でもやった。
あの頃の便所はすごかった。糞が固まって富士山の頭のように盛り上がって便器から頭を出した。その上を真っ白になるほどのウジ虫がうごめき、床には茶色いサナギが散乱していた。こっちは、その上からウジ殺しの乳液を原液のままぶっかけてウジを殺した。畑を作っていた隣のおばさんは、その糞を肥やしに、ナスやキュウリやスイカを作り、ぼくらはそれをおいしくいただいた。
夕方になる前から、ぼくらはおにいさんおねえさんたちの寝そべる浜を回ってコーラやジュースやビールの瓶を回収した。日が暮れ始めるころには浜に大きなシャベルで自分の背丈ほどの穴を掘って、弁当がらなどを投げ込み、燃やした。燃え上がる炎の側でビニールの焦げる匂いをかぎながら、できたばかりの手の豆の皮を引っ張ったりした。
ぼくが中学生のころおじいちゃんが死んだ。高校にあがるころから、おやじは海の家を人に任せるようになった。やがておばあちゃんも亡くなった。ぼくが就職した後、おやじは菓子問屋をやめた。今はずいぶん前から経営していたらしいダンスホールを足場に、老人(?)相手のダンス教師をやっている。
「商売ゆうのは、買うてもらうた相手に喜んでもらえるもんじゃないといけん」と言っていたおやじだが、最近は「先生ゆうのはええ商売じゃ。先生、先生ゆうてもろうて金が儲かる」などと言う。若者が出て行って退職後の老人ばかりになりつつある呉の町。ダンスホールは、貧しかった時代の青春を取り戻そうとする熟年たちでいっぱいなのだそうだ。
八王子くんだりまで流れてきた俺はといえば、毎日糞かきだ。権威主義で固められた学問という糞の山。これをたたいてならして肥やしにする。りっぱな肥やしができたなら、呉の町にもさっとひと撒き、故郷を讃えて捧げたい。
(社会学部助教授 岡野内 正)