::::: 3. イスラームと資本主義 :::::


(4) 商品資本循環

 商品で始まり商品で終わる商品資本循環では、資本家はあたかも、利潤が目的ではなく、商品を市場に持ち込み、取り引きすることを自己目的として楽しむ商人のように見えてくる。あくなき利潤の追求ではなく、商品の円滑な流通と、市場の適切な管理と維持とを自己目的とする商人。これは、しばしば描かれるバザールのイスラーム商人のイメージにぴったりではなかろうか。筆者が、資本循環の説明を、貨幣資本循環ではなく、商品資本循環で始めたのは、そのためである。商品資本循環では、W−G−Wという市場での取り引きがまず全面的に視野に入ってくる。Wで始まり、Wで終わるこの市場取り引きでは、Gは、一時的なものに過ぎない。この取り引きの目的は、W−Wすなわちある商品を別の種類の商品と交換することである。この産業資本家は、自分の生産物Wをもって市場に現れるが、市場を去る時には、自分自身の消費手段だけでなく、生産手段と労働力とを入手していなければならない。そのためには、市場で、消費手段の売り手だけでなく、生産手段の売り手、そして労働力の売り手すなわち賃金労働者を見出さねばならない。産業資本家が市場で行うこのような多数の登場人物との出会いと取り引きは、あたかも遠隔地貿易の取り引きのように困難に充ちたものに見えることだろう。他の商品交換と何の変わりもない等価交換である労働力の売り手(賃金労働者)と資本家との間の取り引きを、遠隔地貿易とのアナロジーでとらえ、両者の出会いと交換行為そのもの(資本家と、賃金労働者という「異なる価値体系」をもつ種族との間での交換)から利潤が生まれるとした柄谷行人・岩井克人氏の珍説も、このような事情に触発されて生まれたものかもしれない(柄谷 1978,岩井 1986)。
 けれどもケネー(Quesnay,F)を始めとするいわゆる重農学派は、むしろこの商品資本循環の視点にたつことによって、社会全体の再生産を可能にするような生産物の諸部門間の構成比率と流通経路とを明示することに成功したのであった。
 資本家が購入した労働力(正確にはその時間ぎめの処分権)と生産手段との適切な使用によって資本家が購入した全商品の価値が増加する生産過程は、市場の背後で行われる消費過程(ただし生産的な消費の過程)である。それにもかかわらず、資本家と賃金労働者という二人の商品所有者間の取り引きという観点から見れば、それはあたかも交換取り引きの過程の一部であるように見える。労働力を売り渡すことを約束した賃金労働者が資本家から実際に貨幣を受け取るのは、生産過程の終了後であることのほうが一般的だからである。そして、資本家から見れば、労働力を購入する約束は生産過程の前であっても、購入した労働力の対価を支払うのが生産過程の後であってみれば、賃金労働者との交換取り引きは、ようやくその時点で終了すると見るのは当然であろう。ゆえに、このような意味での資本家と賃金労働者との交換取り引きの視点からは、生産過程は交換過程の一部として、その視野から消え去ってしまう。そのうえ、資本家の取り引きは全体としては、W−G−Wであり、労働者のほうも、A−G−Wであるから、どちらも対等な商品所持者であり、双方が得をするW−G−Wの取り引きを行ったように見えるのである。
 こうして、この産業資本家は、実は商人なのであって、市場での商品取り引きを主要な目的とし、ことのついでに(市場での労働者との取り引きの途中で)店の奥で保管した商品の加工を行っているにすぎないもののように見えてくる。商業と工業とはこうして同一のものとされ、明確に自然と人間との関係が目にみえる農業と区別される。このような把握は、やはり商品資本循環の視角で全過程を分析した、重農学派に始まるのである。



(5) 貨幣資本循環

 けれども、まったく同じ過程をGを起点とする貨幣資本循環の視点で見れば、この産業資本家が、商品流通を媒介する商人と同様であるかのような幻想は消え去ってしまう。「もとで」Gに対して「もうけ」gを得るという資本家の目的は、この視点からはきわめて明確である。
 簿記・会計は、この観点に基づいて、発展してきた。ムスリム商人の間でも独自の発展を示してきた簿記・会計を、イスラーム経済の視点から再検討するという研究も現れている[Gambling&Abdel Karim 1991]。



(6) 生産資本循環

 生産資本循環では、商品の形も、貨幣の形も、ただ市場での一時的な形態変化のように見えてくる。客体的自然としての生産手段と主体的自然としての労働力とが統合される物質代謝の一側面としての生産過程、それが連続する再生産が視野の中心に入ってくる。したがってこの視点からは、個々の作業場のみならず、社会全体の生産過程の組織のあり方、すなわち社会的分業が注目されることになる。さらに生産過程の繰り返しの中での合目的的な生産過程の組織の変化、とりわけ労働の生産力の上昇が注目されることになる。
 アダム・スミスは、生産資本循環の視点に立って、自由な小生産者やマニュファクチュア労働者などによる社会的分業や作業場内の分業の生産力に注目した。奴隷や不自由労働者と比較した場合の自由な労働者のもつ主体性と、それが自然に対して表された場合の労働の生産性とは、この視点に立つ時、直視されることになる。この意味では、生産資本循環の視点は、経済的に把握された市民社会の視点といってもいいかもしれない。



::::: 4. イスラームと市民社会 :::::


 イスラームあるいは中東と市民社会についても、すでにいくつかの議論がある。たとえば、プロテスタント的に文書的教養を指向するウラマーと、民間の聖者信仰が共存しうるような独自な構造になっているゆえ、イスラームにとって世俗的な市民社会の観念は相容れないとするゲルナーの議論に対して、アイケルマンらは、中東諸国での高等教育の普及を背景に、コーランを現代の文脈で自由に解釈する動きさえ現れていることを挙げて、批判している[ゲルナー 1991,Eickelman 1998]。さらに、ノートン(A.R.Norton)らの現代中東における市民社会の分析は、国家とは区別される自発的な組織のネットワークと、そこでの寛容の精神に基づく関係に焦点をあてた[Norton(ed.)1994,1996]。筆者もかつて、イスラエル及び占領地における市民社会について、若干の分析とともに、植民社会としての当該地域の政治経済的な独自な構造を分析すべきこと、そして政治経済的な国際的関連を分析すべき、といった課題を示したことがある[岡野内 1997b]。
 ここでは経済的にみた「市民社会」について問題提起を行い、奴隷、不自由労働、自由な賃金労働の議論につなげたい。筆者は、かつて市民社会について、「相互の友愛(非暴力的共存・相互理解への意志)の関係を壊さないかぎりで自由な、そのような個人が平等に権力を分け持つような人間集団」という定義を与え、その歴史は、はるか古代社会にまでさかのぼるが、産業資本主義のグローバルな展開に伴い、ようやく近年になって、そのような市民社会が、グローバルに拡大してきた、とする見解を示したことがある[岡野内 1999:2-3]。
 資本主義のグローバルな展開はなぜ市民社会を拡大してきたか。資本主義と市民社会のグローバル化が一致するという命題は、事実関係についておおざっぱに正しいにしても、その論理はどのようなものか。この場合のグローバルな資本主義とは、自由な賃労働に立脚する産業資本主義にほかならない。とはいえ、中東やイスラームが優勢な地域では、地元の古くからの市場の網の目に、外国資本の網の目が絡み、市場の構成も、そこでの資本主義も、複雑な様相を呈してきた。そこでは、奴隷・不自由労働・自由な賃金労働がしばしば共存してきた。資本主義は市場を通じてさまざまの労働をつかみ、労働する諸個人の主体性を変革してきた。けれどもわれわれは、市場に現れる資本主義の複雑な位相に惑わされることなく、生産過程における人々の主体性と生産性に焦点を定めて、労働する市民からなる市民社会の形成とそれが逆に資本主義に反作用していく様相とを分析することが必要であろう。
 最近流行になりつつあるNPO中心の市民社会の分析は、このような労働のあり方を鍵とする経済的な市民社会の分析によって補完されるべきであろう。さまざまの団体が用いるイスラームのコトバも、そのような経済分析を基礎にして、理解可能なものとなるのではあるまいか。



::::: Islam and Economic Teams :::::


This article examines the question of Islam and Economy by criticizing conventional economic teams,i.e.market,capitalism,and civil society.
 Islam has been said to be a market-friendly religion. However,the notion of market tends to be a source of overstating a market organization as a society of "freedom,equality,and fraternity". A market society is such only to a limited extent. Firstly,it consists of the owners of proprietary rights. Secondly,slaves,unfree labourers,and a labour force of wage labourers are found in the market as commodities.
 The relationship between Islam and capitalism has been a theme of debate for many scholars. One reason is that the notion of capitalism is confusing because capitalism or profit seeking appears in the market along with,and based on non-profit seeking transactions like those of wage labourers. From the perspective of the circuit of commodity capital,profit seeking is shaded by exchange of commodities.
 The question of Islam and Civil Society has also been discussed broadly. The notion of civil society as an economic team is shown as a Smithisn commercialized society in which everyone is a merchant and a worker at the same time,i.e.a free wage labourer.
 In conclusion,three forms of labour,i.e.slavery,unfree labour,and wage labour,are shown as key-concepts for further research on the question of Islam and Economy.