● 社会主義国としてのキューバ ● 竹田 亮


まず、「キューバ」と聞いて誰もがイメージするのは「社会主義国」であること―そういっても過言ではないだろう。事実、僕がキューバに行くと告げたときに周囲から返ってきた反応のほとんどがそれに関するものであった。僕は今回のキューバメンバーの一部と共に春にベトナム・カンボジアを訪ねた。だが、この二カ国では正直に言って思い描いていたような「社会主義」国の姿は見られなかった。それゆえ今回は、という期待とも不安ともつかないような思いを出発前から感じていた。

僕は木村さんとともに一週間遅れでキューバに到着した。到着時にまず気になったのは「どのような入国審査を受けるのだろう」ということであった。しかし、これは拍子抜けするほど普通のものであった。考えてみれば例の「平時の中の非常時」という状態から脱するために観光に力を入れている国である。そう厳しいことを言うはずが無い。しかしキャンプについてみて大ちゃんの話を聞くと「居合いを見せるために持って来た模造刀を取られた」という。その辺りは後で話を聞くうちに理解できたが、国内でのクーデターに対する警戒のために「締めるべきところは締めているな」と感じた。

キャンプについて早々、男軍団(もちろん日本人の)から「軍服を着たカストロライクな髭の人には敬礼しないと説教食らう」と聞かされ、信じてしまった。やはり、このあたりは自分の中に「キューバ社会主義」のイメージが知らず知らずのうちに染み付いていたのだろう、後で赤面した。事前学習で革命防衛委員会などについて知っていたのがこの時は却ってあだになった。しかし、自由な雰囲気のカイミートのカンパメントでの生活の中にも、「アメリカの経済封鎖」についての共産党のお偉いさん?の講演(熱気ムンムンである)などやはり、と思わせてくれる面もあった。この内容のない演説と熱気には、お堅いことで定評のある僕もさすがにうんざりした。

首都ハバナに移動してからは、さらにキューバ社会の様々な面を見ることができた。街中ではさすがに社会主義国のイメージどおり治安・統制が取れている。真夜中でも平気でばあちゃん、もといお年寄りが街角でしゃべっている。しかし、キューバの中でも大観光地のひとつであるハバナでは物乞いやタカリなどの姿もわりあいと見られた。これには「ベトナムのホーチミンほどではないが、観光地化することによって自由経済化が進み、それが貧富の差につながっていくのであろう」と感じた。なにか「ベトナム化」の途上を見た気がして複雑であった。事前学習から「ドルに触れることのできる観光業従事者とそうでない人の経済格差ができつつある」ということは聞いていたがこれはタクシー、レストラン、ホテル、街角などあらゆる場所で実感した。これについてはICAP議長などは「キューバの連帯と友好の精神で社会全体に利益を還元している」と言っていたが明らかに現状はそうではない。

キューバには変わってほしくない、という声をみんなからも聞いたし、僕も密かにそう思ってしまうあたりはやはり当事者でないが故のことなのだろうか…

しかし、僕にとって「社会主義」を実感するクライマックスは最終日の夜にやってきた。この日はこけの誕生日。お祝いのためみんなが準備している中、「野球を見に行く」といって単身タクシーに乗って出て行った僕であったが、その日は野球の試合は無かった。斉藤さん(生協の手配をしてくれた人)を恨みつつ、「近くにある」はずのホセ・マルティタワーの夜景と闇に浮かび上がるチェ・ゲバラの顔でも見に行くかと徒歩で向かったのだが…
遠い!しかも街路灯の切れかけたダウンタウンの中である。いくら治安がいいとは言われてもさすがに怖い。道すがら共同住宅の部屋からもれるサルサのリズムと楽しげな声を聞いて「これがキューバかな」と思っていたのもつかの間、目的地についてたはずが暗くてよく分らない。そのまま歩を進めるといきなり兵士が現れ「Pare」(とまれ)という。何を言っているか良く分らないが「nombre」と聞こえたので名前を言う。「ノー・エスパニョール」というとパスポートを見せろというので提示すると、なにやら詰め所に戻って電話をしている。「やばい、無事に帰れるのか」と思いつつ待たされること20〜30分、その間に「もう帰るからパスポート返してよ」といっても「止まってろ」と言われる。ようやく英語のできる上役に事情を話して解放してもらったものの、銃を持った兵士との時間は長い長い。途中で気づいたがそこは目的地の反対側にあるキューバ共産党本部その場所だったのである。夜にカメラを持って入ってくる日本人、怪しまれて当然であった。

ベトナムほどではないが、やや「社会主義」の体を変容させつつあるキューバ。「自由主義諸国」から金を搾り取って体制を生かそうとすればするほど「自由主義」に近づいていく矛盾。
そんな中で政治的な意見も持ちつつ、サルサのリズムに乗ってマイペースで生活していく人々。その生活の中にも影を落とし始めた貧富の差。ドルショップで買い物をする人と教会の前で物乞いをする人。タカリ,数は少ないがスリ…  明らかに表向きの「キューバ」と実際のキューバの姿には乖離があった。他の数ある社会主義国と同様、社会主義体制はその姿を変えていく運命なのか。主に第二次大戦直後に先人たちが打ち立てた「夢の楽園」としての社会主義体制は旧ソ連の崩壊以後、大きな変動のさなかにある。



● アメリカの経済封鎖 ● 石川 佳代子


クリントン政権時には改善されていくようにも思われたキューバとアメリカ合衆国の関係は大統領がブッシュに代わり悪化している。ブッシュ政権はキューバを生物化学兵器を所有、開発を意図している国として「テロ支援国家」に指定し、国連での人権難決議採択や米市民の渡航禁止など封じ込め政策を強め、経済制裁の延長宣言を行なった。キューバは今新たな局面を迎えているといえるだろう。

そもそもアメリカの経済封鎖の始まりは1959年のキューバ革命による。この革命はキューバの長い植民地時代の終焉であるとともに、アメリカの経済封鎖によって世界から孤立するきっかけとなる。当時の米大統領アイゼンハワーはキューバによる農地改革、反革命派550人の処刑(バティスタ時代に処刑された者の方が多いが当時アメリカは言及せず)ドミニカ共和国へのゲリラ派遣、米企業の国営化(5万ドル以上の米国資産が接収された)などをうけて融資停止、禁輸による対キューバ経済封鎖政策を開始。ジョンソン政権時には援助物資を輸送する船舶や航空機所属国への援助を打ち切り、米州機構に対キューバ集団断交、禁輸を強制した。このことでキューバは一層世界から孤立し、社会主義体制をとるようになってからは主に社会主義国との貿易に依存。75年には合衆国との封鎖は続けるがラテンアメリカにある北米企業との取引を認め、キューバと商取引する国に対する経済援助を禁止する政策も停止するなど関係は良いほうに向かうが後のレーガン政権時にまた悪化。と、キューバの北米を含む対外関係は40年以上もの間浮き沈みを繰り返しその裁量はアメリカにゆだねられているともいえる。

米政府が反キューバを唱える裏には在米反革命派のキューバ人達の影響力の強さがうかがえる。在米キューバ人等はもともと専門職につく富裕層出身者が多く、カストロ政権に対する強硬策の実施のために献金やロビー活動を通して連邦政府や議員にも圧力をかけていて、実際に彼らは政府の経済政策を変えさせるだけの政治力をもっている。
メディアは強いほうにつくためアメリカがこのような経済政策を行なっていることはあまり国際的には知られていない。私たちにできることはまず、問題意識をもって正しく情報をキャッチしようと努めることかもしれない...



● キューバの医療事情@ ● 金子 裕美


キューバ政府は革命後、医療制度の充実に力を入れてきた。キューバではすべての国民が無料で医療サービスを受けることができる。800人に1人の医者、100家族に1つという割合で医院があるという。そしてキューバ医療は国内に留まらず、世界にも貢献している。アメリカ大陸やアフリカ大陸、アジア、中近東、ヨーロッパなど合わせて世界60カ国に医師をボランティア派遣していて、医療設備の整っていない都市から離れた村などの、医者にかかれない人々への医療サービスをすべて無料で行っている。始まりは1963年のアルジェリアで起こった自然災害の被害への援助である。2万5000人のキューバ人医師たちが援助に向かったという。また一方では、海外から医学生を受け入れて、無料で医学を教えている。

そして私たちは、海外から医学生を無料で受け入れ教育を行っているという、「ラテンアメリカ医学学校」を訪ねた。ラテンアメリカ医学学校は1999年に設立、1918年(1998年?)にラテンアメリカを襲った台風の被害を受けた国の人々が、最初の生徒として受け入れられた。そして現在はそれ以外の国の生徒もここで学んでいる。入学するための資格としては、高校を卒業していて、健康で、前科がなく、首都から離れた町・村に住んでいて、貧しく、26歳以上でないことである。キューバ政府は国ごとに受け入れる生徒の人数を決めていて、例えばコロンビアの学生を80人受け入れることになった時、2000人の応募があったという。倍率は本当に高いのである。学校は7年制で、最初の6ヶ月はみんなのレベルを合わせるために初歩の教育を行い、その後6年間本格的な医療の勉強と実習を行ってから、卒業する。卒業した後は自分の国に帰り、自分の国の人たちのために医者として働くという。お金のためではなく、新しい原理、人道的・連帯の観点から、感謝として医療をする。生徒たちはこのことを科目として教えられているわけではない。キューバスタイルの民主制度の中で習うのだ。キューバ人スタッフは生徒たちが卒業してから自国に帰り、自分の国の人のために医療活動を行うことを期待している。

そしてまた大切にしているのが、人々が病気にならないようにする活動である。病気になってからでは治療が難しい。だから国民にいろいろな医療習慣を教えるのである。例えば食事の前には手を洗うなどである。簡単なことだが、途上国ではたくさんの人たちがなくなっている原因でもある。人々の健康を保つには大きな医療施設だけが必要なのではないという。地道な活動が重要なのである。

<キューバの薬事情>
キューバでは外国からの経済封鎖によってアスピリンしか手に入らなくなった。そこで薬産業を発展させなくてはならなくなったのである。現在6つの薬は、外国で生産されている薬よりも質が高いという。例えばB型脳髄炎ワクチン、インターフェロン、B型肝炎ワクチンなどはキューバで開発・製造され、イギリスなどの製薬会社を通して多くの国に輸出されている。しかし他の薬は遠い国から買わなくてはならない。そのため値段も高くなってしまう。しかしながら薬の欠格はあるが、難しい病気の薬は病院にはぜったいに置いてあるという。