● 君を愛することを学ぼう・・・ ●

2003年夏、キューバ


<Aprendimos a quererte(君を愛することを学ぼう)…>
「いい歌よね。」
「そう、とてもすてき。・・あなた、知ってるでしょ、この歌。」
キャンプ内の売店で3ドル50セントで買った黒いTシャツを着た私の胸の文字を見ながら、2人のスペイン女性が語りかけてくる。その文字の下には、キューバ革命の英雄チェ・ゲバラがにっと笑う顔。
 朝の労働と昼の暑さでお腹をすかせた人々が並ぶ食堂入り口の行列。そこはヨーロッパ各地からこの農場に来た人々の出会いの場。その時ぼくはまだ、Hasta siempreというゲバラを称えるその歌を知らなかった。

<農場の朝>
農場の朝は、スピーカーから流れる「こけこっこーっ!」で始まる。しばらく間があって、ゆったりと愛を歌うキューバ音楽が流れ出す。Guantanamela, Yolanda・・・。5時半。辺りはまだ真っ暗。「Te Amo, te amo,・・・(君が好き、愛してるんだ・・・)」甘ったるい歌声を聞きながら、トイレの前の流しで顔を洗う。見上げれば星が最後の光を放つ。2段ベッドが並ぶ兵舎のような宿舎からぞろぞろとわれわれ日本の学生や、キューバ人ガイドやら、イタリア人女性たちが起き出して流しに雁首を並べて顔を造り始める頃には、食堂に急いだほうがいい。6時に食堂のドアがあき、並んで待つ数名がなだれこむ。まずナイフ、フォーク、スプーン、ついで、パンとチーズ、芋などをのっけた、幼稚園か刑務所を連想させる傷だらけの安っぽい赤プラスチックの給食プレート、そして暖かいミルクの入ったコップ。テーブルには農場で取れるオレンジやグレープフルーツが切って山積み。苦いがうまいコーヒー、砂糖たっぷりの手作りグレープフルーツジュースは、プレートを置いて取りにいく。

<Vamos a trabajar(いざ、しごとへ)・・・!>
6時半頃から広場で朝の集会。今日は、キューバ革命の英雄だれそれの誕生日。ホーチミンがなにやらした日。・・・といった革命にまつわる歴史の回顧。帽子やスカーフなど忘れ物紹介。そして、今日の仕事の発表。カマやでかい剪定用ハサミなどその日の道具を肩に、ぞろぞろと歩いて農場を後にする。ちょうど7時頃。出たばかりですでにまぶしい太陽。仕事場までの道のりは遠い。みわたすばかりのオレンジ畑やサトウキビ畑を突っ切るアスファルトの舗装道路。オレンジ畑の中の小道。貸与された麦わら帽子をかぶり、それでも日陰を探して歩く。

<泥、蟻、蚊、・・・熱射地獄>
初日の草刈りは地獄だった。明け方に降った雨でどろどろになった赤土は、真っ赤な泥になって、運動靴の中まで染み込み、ジーパンのすそや靴下まで赤く染める。ぞうりやサンダルできた女子学生たちは畑の泥に履物を取られ、裸足になると、蟻の襲撃を受けた。刺されるとちくちくといつまでも痛い。容赦ない熱帯の太陽が地面から水蒸気を立ち昇らせる。幻想的な朝靄にかすむオレンジ畑はやがて蒸し風呂になる。涼しげな剥き出しの腕や脚は蚊の餌食。1メートルにもならない小型みかんの苗を、特につる系の雑草から守るのがわれわれの任務だ。それ以外の雑草は除草剤で除去するという。有機農業体験を目的とする我々にとっては、がっかりする話。すでにキューバ製除草剤を作る工場もあって、それを使っているという。

<救いの馬車>
2,3人ずつ組になって軍手で草をむしっていく。私とSとは1列すんだところで、オレンジの木陰に入り、ひと休み。いい草をはやして作物を守らせるやり方があんじゃねえかなあ、キューバって、先住民が全部スペイン人に殺されて、アフリカからの奴隷とスペインからの植民者でできた国だろ、そういう先住民の知恵が伝わってねえんだ、などと話しながら、しゃがみ込んで木陰の涼しさを味わう。結局午前中かかって2列もやったかやらないか。炎天下でまじめにむしったKは、ついに体調をくずし、通りかかった馬車に頼んで、農場まで送ってもらったという。・・・最終日の落花生の収穫(私は病院への付き添いで参加できず)は、トラックの荷台に乗り込んで現場まで行ったというが、ハバナから小1時間のこの農村地帯で、忙しげなトラック以外の自動車が通るのを見るのは珍しい。馬車は村人の手頃な移動手段なのだ。

<破壊工作?>
2日目から数日間は、オレンジの枝切りをした。両手でバチンと切る大きな植木バサミ、小型のノコギリ、片手用の小さな植木バサミ。そんな武器をもって、樹齢20年から30年というかなりの大木のこんもりとした茂みに入り込み、枯れ枝を落とし、幹の真上の枝葉をはらう。そうやってドーナツ状に刈り込んで、枝と言う枝にたわわに実ったオレンジにまんべんなく日光を当てよう、というわけである。
40歳くらいの実直で、実にいい笑顔の小太りのおじさんが、われわれ作業部隊の担当だ。スペイン語しかしゃべらない彼は、私の怪しいスペイン語をあてにして、作業隊長として仕事を覚えさせようと丁寧に教えてくれる。・・・だが、不器用なこっちは、汗で目がみえず、蚊の襲撃や、切った枝葉から落下してくる蟻のシャワーこわさにばっさ、ばっさと刈り込み、どさっと、たわわのオレンジごと切り落としてしまう。そうやって、間違えて落としてしまったオレンジはどれほどになったことか。それでも彼は、ちょっと困った顔をしながらも、小言一つ言わず、「どうだ?」と聞き、「ばっちり!」と答えれば、素敵な笑顔で肩をたたいてくれる。そうやって間違えて収穫した青いオレンジ。もったいないので、指でむいて口に入れてみる。口いっぱいにひろがる上品でさっぱりした果汁のうまいこと!

<いつか自然農法を!>
え?食ってるの?・・と一瞬困った顔のおじさんは、どこやらから色づいたオレンジをもってきて、休憩にしよう、という。座り込んで、ハサミでオレンジをむいてかぶりつきながら、よもやま話。
カイミートという、首都ハバナとハバナ空港の中間あたりにある小さな町の郊外にあるこの大農園は、革命後に大農場主の土地を接収して農場労働者たちが作った協同組合で運営している。主にオレンジやグレープフルーツを作って、ハバナあたりに出荷しているという。実家が徳島のみかん農家だというが、日本では、こんなにいっぱい実をつけさせず、間引きして、大きな果実にする、などと説明。通訳を介して熱心に聞くおじさんの悩みは、人手不足、値段の安さ。日本のみかんの値段を聞いて、日本に輸出しようぜ!などとはしゃぐ。・・・農薬は使いたくないが、害虫や病気の発生をチェックしながら使っているという。・・・観光振興による経済の持ち直しとともに、経済危機ゆえのやむをえずの有機農業から脱却して、大地への農薬ばらまきをはじめたキューバ農業。いつか実直なこのおじさんと、農薬や肥料を使わない自然農法の技術を試してみたい。みかんといっしょに虫除け作物を植えて無農薬・無肥料みかんを実現した自然農法のじいさんは、たしか愛媛の人じゃなかったっけ。・・・

<有機野菜センター>
ハバナ近郊には、オルガノポニコ(ORGANOPONICO)というちょっとした学校くらいの規模の直売店つき有機野菜農場がたくさんあって、その一つを見学した。そこでは、虫除けにハーブを植えたり、ネギのような虫除け効果のあるものと組み合わせて菜っ葉類などの野菜を育てている。もちろん堆肥も作っており、手間隙かけた有機農法だ。水は地中に埋めたホースの穴からスプリンクラーのように噴霧される完全自動。ジーンズのすてきなお姉さまたちが草取りをしているのは、芸術大学から派遣されたボランティアだとか。除草はどうやら完全に手作業らしい。
もともと野菜つくりは中国系移民から教わった、という。ソ連崩壊直後の経済危機の時期には、日本を含め、世界の有機農業家からの技術支援があったらしい。いまでは、大規模な都市近郊の有機野菜センターのチェーン店のようになっているORGANOPONICOがこんなに成長するなんて、1990年代初めの経済危機の頃には思いもよらなかった、とキューバ人ガイド。もちろん国有企業だが独立採算になっていて、職員は普通の医者や教員以上の給与をもらっているという。
有機農業がんばれ、というエールもこめて、スタンドのような直売店で、職員の自宅の庭でとれたという果物を買い込む。小型で甘味の強いバナナは帰りのバスで、農場に帰ってからはパパイヤを解体し、みんなで囲んで貪り食う。天国の味。アボカドのうまさもまた格別。・・・

<天人午睡!>
朝の一仕事を終えて、11時くらいには各国部隊とも農場に帰ってくる。トイレ裏のシャワーに直行し、素っ裸になって汗と泥と蟻を流す。いっしょに靴下やパンツやTシャツも石鹸で洗い、ぎゅっとしぼって芝生の上の針金に干す。風呂上りはゆったりタイプの水泳パンツ一枚。真昼の太陽は昼寝明けまでの2,3時間で洗濯物をすっかり乾かしてしまう。じりじりと背中を焼く日差しを浴びて満艦飾のブラや下着に自分のものを加える。そのまま裸足で大地を踏みしめ、いちおう冒頭のゲバラTシャツをはおって礼儀を示し、農場内のドル売店へ。まずは、1ドルのよく冷えた缶ビールをぐびり。ビール片手に食堂に並ぶ。
ヨーロッパ各地からは総勢300人近く。ことばマニアのわたしは、ほとんど20年ぶりのギリシャ語やイタリア語、10年ぶりくらいのデンマーク語、かつて半年住んだのにほとんど忘れているポルトガル語の言い回しなどぽろぽろと思い出してはしゃべって喜んでもらい、おおはしゃぎ。キューバに来るというのにスペイン語ができない人も多く、ドイツ語、フランス語も重宝。とはいえ、込み入った話になるとやはり英語で、スペイン語である程度の意思疎通ができるようになったのはようやく農場を離れる頃。八王子の喫茶店で私の知り合いの日系アルゼンチン留学生を講師に数回のスペイン語講座を受けただけのゼミ学生諸君にとっても、英語をしゃべる人がいてむしろほっとする環境はカルチャーショック。キューバ到着前に一泊したカナダの空港で買い込んだウィスキーボトルを差し出しながら大いに交流を図っていた。
食堂で騒いだあとは、昼寝がいい。時差ぼけか、いつもは朝めし後のうんこが、昼食後に出てくる。ついでにまたシャワーを浴びて紙を節約し、歯磨きくちゅくちゅをすませ、すっきりと新しいパンツをはいてベッドへ。

<東洋の神秘!>
2日目か3日目くらいのこと。昼食の食堂でいっしょになったスペイン人女性たちが、おなかを押さえてなにやら相談している。聞けば、スペインから来た女性たち25人は、ここにきてもう6日目になるのに、みんな便秘で困っているという。・・・ふむふむ。この薬ね。天然原料うんぬんの丸薬。まあ、毒にはなりそうにないわね。そうだ、ちょっと手を出して、とひとりの手のひらのツボを押してみる。軽く押しただけなのに「あう!」と跳び上がらんばかり。しかし優しくもみほぐせば、気持ちいいらしく、潤んだ眼でこちらを見て手を放そうとしない。まわりは、あなた、日本のマッサージ知ってるのね、と大騒ぎ。私も、私も、と手を出してくるので、じゃ、本格的にやってあげるから、と一同を引き連れて宿舎のほうへ。2段ベッドの並ぶ寝室の手前の廊下、芝生の前に横になってもらい、人垣の中で足つぼ刺激。同行の学生たちの乗り物酔いや下痢便秘には、せいぜい手の平、足つぼていどだが、この際大サービス。うつぶせにして腰のつぼまで丁寧に。順番待ちの女性には、石畳の廊下の上に小さな小石を置いて、その上を踏んで足つぼ刺激をするように指導。・・・翌日、食堂で会ったスペイン女性たちに、「どう?」と聞けば、大喜びで近寄ってきて、ばっちりよ!と手を握ってくる。・・・自分でも半信半疑の指圧が大成功してすっかり自信を得た私は、帰国してから学生たちとサブゼミを作って、ツボ研究を始めた。癒すものが癒される、というが、国境を越えて、もみもみしあう世の中になれば、世界はぐっと平和に近づくにちがいない。

<マイアミ・ファイブ:革命未だ成らず>
昼寝後の2時か3時くらいからは、講演会やら、おでかけやら、ちょっとしたイベントがある。ある日のこと、アメリカで捕らえられて、スパイ容疑で獄中にいる5人のキューバ人政府諜報員の家族たちの話があった。彼らは、キューバ革命で財産を奪われて逃げ出して、マイアミに住む金持ちの亡命キューバ人反革命武装勢力をスパイしていたのであって、アメリカ政府をスパイしていたのではない。よって、フロリダ州一審での有罪判決は当たらない、というのが、キューバ側の主張だ。ほんの数年前まで、マイアミの武装勢力が、キューバに工作員を送り込み、ホテルを爆破したりして、スペイン人観光客が巻き添えで死亡したことなど、わたしもほとんどおぼろげに記憶している程度。・・・その前夜だったか、バスでハバナまで行って、ショーを見ながらラム酒をしこたま飲んだ「友好の家」ナイトクラブのゴージャスな中庭、バルコニー、シャンデリアの館を思い出した。それはある金持ちの私宅だったという。古いヨーロッパ貴族の館を思わせる造りの家は、ハバナはもちろん、ちょっとした町には必ずあって、人々に革命前の主人がだれであったかを思い出させる。・・・反乱を起した貴族の家の使用人や芸人たち。ちょっくらマイアミの別宅に避難しただけの元のご主人様たちは、その気になれば、イラク侵攻のような空爆とアメリカ軍部隊上陸に続いて、すぐに帰ってくるかもしれない。アメリカの獄中にあって国民英雄にマイアミ・ファイブの家族を迎える集会には、そんな貧民たちの緊迫した警戒心と怒りが混じった奇妙な熱気が溢れていた。革命はまだ継続中なのだ。

<Noche de Europa(ヨーロッパの夜)>
ヨーロッパ各地からの人々を組織したのは、各国のキューバ連帯組織で、みるからに革命家のオーラを漂わせる人たち。しかし、実際の参加者のほとんどは、とにかく安く、一風変わったバカンスを過ごすためにやってきた、あんまりお金がありそうにない普通の男女。独身っぽい30代くらいの福祉関係のソーシャルワーカーが多いようだ。もちろん、鼻輪じゃらじゃらバラの刺青のお姉さん、背中にゲバラの顔を彫った屈強の若者も。我々が農場を去る少し前の夜、このヨーロッパ部隊のお国自慢の交流会があった。ギリシャ人が民族楽器を出してギリシャ舞踊を踊り、トルコ人がちょっと違うのでうまくいかないけどと言ってその楽器を借りて、ひきがたり。アイルランド人は、寸劇で革命歌を歌い、ドイツ人は、ブレヒトの歌、オーストリアはフルートでモーツァルト。イギリスはパブを再現してビートルズや革命歌。イタリアが反ファシズム闘争の寸劇なら、フランスは、人民戦線の歌や朗読。ロシアがプロっぽいモダンダンサーのお姉さまを踊らせれば、スペインは、各地の民族舞踊。バスクは別に登場して、独特のビートのきいた素朴だが迫力ある踊りと歌。オランダやポルトガル、デンマークはそれぞれの歌を。最後にキューバの高校生が現われて、輪になってパートナーを替えながら踊る激しいサルサ。・・・夜もふけて、これでお開き、と思いきや、突然に、日本コールがかかる。かぶりつきに座っていたのが運のつき。隣にいた徳島出身のO君と顔を見あわせ、阿波踊り、やるか、よし、と。観念して、舞台へ。


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