::::: 2. イスラームと市場 :::::
(4) 不自由労働
第2に、奴隷ではないが、自由な賃労働とはとうてい言い得ないような不自由労働の労働力市場について。奴隷の禁止が、すぐさま自由な労働力の市場を生み出すわけでは決してない。世界史上の奴隷の禁止は、年季契約労働(indentured labour)を始めとするさまざまな不自由労働者を生み出した[Bush 1996,脇村 1999,岡野内 2000など]。
このような不自由労働者の基本的な特徴は、労働者と雇用者との間の仲介者の存在である。それは、奴隷と、その奴隷の売り手である奴隷所有者(奴隷商人)との関係が、変化したものとして考えることができる。それが不自由労働者たるゆえんは、労働者が、一定期間、雇用者のもとに、監禁・拘束されることにある。自由な賃金労働者が、気に入らない職場をいつでもやめたり、労働条件についての再交渉に入ることができるのに対して、不自由労働者の場合はそうではない。それは、自由な賃金労働の場合は、通常、賃金が後払いであるのに対し、不自由労働の基本的な形態は、賃金が前払いであるのにも対応している。その場合不自由労働者は、前払いとぢて受け取った賃金ゆえに、いわば債務奴隷となる。
19世紀末の名著『権利のための闘争』の著者は、シェイクスピア劇『ベニスの商人』におけるシャイロックの要求は、「血を流さず肉を切り取れ」というような詭弁的な論理ではなく、債務によって人身を傷つけるがごとき要求は反人権的、という論理ではねつけるべきとした[イェーリンク 1982]。けれども甘んじて奴隷状態を受け入れる労働者には、そのような主体的な闘争の論理も手段も欠落している。債務奴隷を帰結するような契約を有効とするかどうかは、近代法の重要なメルクマールの一つであって、近代刑法思想の出発点をなす18世紀末の名著『犯罪と刑罰』さえも若干の動揺を示している[ベッカーリア 1959]。そして、自由な賃金労働と比較して、不自由労働の場合には、労働者がはるかに窮迫しており、そのうえ、就業機会を奪われている状況にあることは言うまでもない。仲介者は、このような窮迫した労働者にとって、むしろ生存のチャンスを与える者として登場し、「中間搾取」的な仲介料を受け取るわけである。
この意味では、仲介者と不自由賃金労働者との関係は、いわゆる封建制における領主と農奴の関係に似たところがある。家庭を形成することも、一定の土地との結びつきを維持することも原則として許されない、所有の対象ではあるが所有の主体となることを許されない存在としての奴隷に比べれば、家庭を形成し、一定の土地との結びつきを許される地位を獲得した農奴は、はるかに恵まれた存在である。このような生存の仕方を保障してくれる領主のために、農奴は、よろこんで無償労働を提供するであろう。このような農奴的な主体性の持ち主は、領主に替わって労働の仲介者が現れ、奴隷よりもはるかにましな農奴的境遇を維持するための賃金を払ってくれるならば、領主の土地で無償労働を行うかわりに、仲介者の指定する労働をよろこんで行うであろう(たとえば、[安良城 1989])。
歴史上長期にわたって、かなり普遍的に存在してきた奴隷労働・農奴的な不自由労働・自由な賃金労働という労働のあり方の差異を、労働する人間、すなわち自然に対して主体的な働きかけを行う人間の主体性の強さの違いとしてとらえるならば、このような労働の諸形態の執拗な存続の理由を、整合的に理解できるように思われる。すなわち、奴隷や不自由労働者は、単純に暴力によって不自由労働を強制されるのではなく、自然に対する人間の側の主体性の弱さ(すなわち技術的、生産力水準の低さ)に規定されて、不自由労働の境遇を、むしろ主体的に選ぶと考えたい。このような視点からみれば、イブン・ハルドゥーからゲルナーに至る、遊牧民と都市民と農民とを基軸としてムスリム社会の構造と変動を描く図式は、基本的に不自由労働に立脚する社会における権力関係とその変動を、むしろ普遍的に描く図式として理解可能なように思えるのである[ゲルナー 1991]。
なお、家父長制的家族のもとでは、家父長自身が仲介者あるいは時には監禁者となって、家族成員の女性や児童を動員する形での不自由労働が登場する。戦前日本の「女工哀史」などは、ひとつの典型であろう[細井 1954,横山 1949など]。それは賃金労働の先進国、19世紀のイギリスでも見られた。その実状は工場監督官によって詳細に報告され、当時の社会問題となって社会運動を引き起こしていった。その結果、工場法などの法規制と、機械の導入などの技術革新とが複雑に関連しあいながら、女性や児童の不自由労働が駆逐されていく様相が詳細に研究されている[マルクス 1968,特に第8,13章など]。
イスラームと不自由労働、あるいは中東地域の不自由労働に関する研究は少ない。そもそも中東やイスラームの優勢な地域の労働に関する研究それじたいがあまりなされてこなかったのである[Lockman(ed.) 1994,xi-xiv]。とはいえエジプトについては、19世紀半ばの賦役労働による運河や港湾建設労働、1880年代の賦役労働廃止後には、年季契約労働であったとされるポートサイードの石炭積み下ろし人夫[Lockman 1994,81-85]、世紀転換期の小工場の職人や職工[Koptiuch 1994]、などが、注目されている。さらに後述のような20世紀に関する労働史研究の成果に、タラーヒールと呼ばれる農村の季節移動労働者[長沢 1980]や児童労働[ロンダソン 1978,206-207]の存在を有機的に関連づけることができれば、エジプトにおける不自由労働市場の歴史的な全体像を描くことができるであろう。
さらに中東における現代の出稼ぎについても、パスポートを取り上げて出稼ぎ労働者を事実上の監禁状態におく現代の中東湾岸諸国へのそれは、不自由労働の観点から再検討されるべきであろう(たとえば[岡野内 1994])。
(5) 自由な賃労働
第3に、自由な賃金労働力市場の形成について。自分の労働力の時間ぎめの処分権の売り手としての自由な労働者。このような労働者は、労働力の買い手である雇用者と、平等に渡り合い、平和的友好的信頼関係のもとで交渉し、互いに相手を選びつつ、自由に契約を結ばねばならない。だがはたして、労働者には、その「自由な」という形容詞に値するほど、買い手を選んでゆっくり交渉するだけの余裕があるであろうか。
歴史的に見るならば、多くの地域において、雇用者側の資本家と比べて、労働者の側は、圧倒的に不利な関係にあった。労働力は一般的に供給過剰であり、労働力の売り手である労働者の側は、窮迫ゆえに、売り急いだ。けれども、やがて、労働力の売り手の側は、個別交渉の不利を克服するために、団結して時にはストライキなどを行い、労働力の供給を制限しながら、雇用者側と交渉するようになる。労働者たちは、このような団結によって、社会階級を形成しつつ、自由な労働者として登場してくる。こうして形成されてくる労働者階級の力を背景とする多様な社会運動によって、工場法など労働条件に関する法の制定を始めとして、自由な団結権、交渉権、争議権などのすぐれて労働法的な権利の保障、失業保険、職業訓練・紹介制度、労働災害対策にとどまらない医療・保険制度、年金制度、教育制度、さらにはエスニックな差別や男女差別の禁止やセクシュアル・ハラスメント禁止措置などの人権保障制度も含めて、福祉国家的な制度が形成され、労働力の売り手としての自由を確保する試みが続けられてきた。
自由な賃金労働者の登場は、このように、いわゆる福祉国家の成立との関連で考える必要がある。筆者は、実質的に不自由な賃金労働の批判から出発したものの、全面的な不自由労働体制を出現させる結果となって崩壊したソ連・東欧社会主義国家の展開も、このような視点から再検討すべきと考えている。この問題は、御用組合化して専制的になった労働組合の職場支配等の問題を視野に入れて、1980年代以降の日本の労働法学会で問題にされている、社会主義的発想に立つ団体優位の労働権の把握に対して市民法的に労働権を再把握しようとする動きとも関連する(たとえば[西谷 1992]。
自由な賃金労働者は、いつ頃、どのようにして中東やイスラームが優勢な地域に登場してきたのであろうか。先述のように、中東の労働史研究はようやく緒についたばかりである。けれども、すでに19世紀のエジプト[Lockman 1994,Koptiuch 1994]、シリア[Vatter 1994]、オスマン帝国[Quataert 1994]について、不自由労働とともに、職人、職工、鉄道労働者などについて多面的に検討しようとする研究や、20世紀のエジプト[Goldberg 1994,Posusney 1994,Beinin 1994]、イラク[Davis 1994]、トルコ[Ahmad 1994]などについて、労働運動史にとどまらない多面的な研究が試みられている。さらに革命後のイランのように、イスラームの側から国家が労働問題にアプローチし、賃金労働について独自な位置づけを与えている場合もあって注目されている[Bayat 1994,Nomani&Rahnema 1994]。女性労働の問題も、このような全体としての自由な賃労働の形成との関連で再検討されるべきであろう[Tucker 1985,フードファー 1994,エッチュビット 1994,村上 1999など]。さらに、労働問題と同様に研究の遅れている分野である中東やイスラームにおける社会保障や福祉国家の問題もこのような視点から再検討されるべきものと思われる[中田編 1998]。
(6) いわゆる市場問題
以上見てきたような、いわば人権論的な視点からの奴隷、不自由労働、自由な賃労働の問題は、市場じたいの量的・質的な発展という点からみて、重要な問題と関連している。19世紀末のロシアで、ロシア内部からの資本主義発展の可能性、国内市場形成の可能性をめぐって行われた「いわゆる市場問題」に関する論争がそれである(たとえば、[雀部 1979]の整理を参照)。それは、次のような問題であった。
晩年のマルクスとも連絡をもつロシアのナロードニキ的経済学者たちは、ロシアにおける自給自足的な農村共同体の残存ゆえに、国内市場が不足し、したがって資本主義の発展も不可能であるとした。これに対して若き革命家レーニンらは、農村共同体の内部から商品交換が発展し、自由な労働力市場形成を経て、資本主義が発展することは理論的に可能であるし、実際そうなりつつあると主張した。実際そうなりつつあるという見解は、後に過大評価であったとして修正されたが、市場形成と資本主義発展に関する理論的展望は基本的に保持される。そしてさらに民主主義論と結び付けられ、「資本主義発展の二つの道」という類型論として発展させられつつ、革命後のネップ政策につなげられた。「二つの道」の類型論は、封建制の歴史を持たないために自由な賃労働が形成され、政治的民主主義とともに資本主義が急速に発展しえた「アメリカ型の道」と、封建的土地所有などが残在するために不自由労働も残在し、政治的民主主義が不徹底なままで資本主義が発展した「プロシャ型の道」とを対比し、民主主義発展のために「アメリカ型の道」を追求するという政策論を提起した。さらに言えば、レーニンのこのような市場形成の類型に関する理論的関心は、市場における自由競争と独占との対比を通じて、帝国主義への問題関心につながっていく。
自由な賃労働の登場は、次のような意味をもつとされた。自由な賃労働市場の形成は、同時にその消費に必要な物資を全面的に市場に依存する人口の形成を意味する。こうして、それまでは歴史上存在しなかった種類の市場、衣食住の生活必需品の全体を供給する賃金労働者向けの消費財市場が登場する。そしてさらに、その消費財生産部門が必要とする生産財市場が発展し、生産財生産部門はさらに生産財部門が必要とする生産財の生産をも刺激することになる。このような波及効果によって、市場は量的に拡張する。この量的な拡張は、自由な労働力市場の登場という、市場の発展における、いわば質的な飛躍によってもたらされる。このような新しい市場の登場、土着の伝統的市場の質的変化・拡大こそ、利潤追求を基本原理とする資本主義という経済体制の「内部からの」「自生的な」登場・発展にほかならない。同時に生産力上昇がもっぱら市場の拡大を目指して追求される市場経済的経済発展の実現にほかならない。
買い手と売り手と商品のやりとり。この意味での市場は、数千年来、変わることがなかった。これからも変わることはないだろう。中東の多くの伝統的市場(スークあるいはバザールと呼ばれる)の建物には、古いものが多い。シリアにあるアレッポのスーク建築物の起源は、はるかイスラーム以前、古代ローマ時代にさかのぼり、交易が行われた都市じたいの起源は、古代オリエント時代にまでさかのぼる[Sauvaget 1965]。自由な賃労働に基づく近代の産業資本主義というシステムは、そのような一見単純で不変な、市場取り引きの背後に隠れている。中東やイスラームが優勢な地域の資本主義を問題にする場合にも、われわれは、市場の背後にある人々の独自な経済的関係を読み取る必要がある。
レーニン的な市場問題の提起からは、自由な賃労働に発して、国内市場形成と資本主義の自生的な発展、そして市場での自由競争に根拠をもつアメリカ型の資本主義の発展の中での民主主義の発展、したがって市民社会の形成、といった問題が派生してくる。けれども、そこでは同時に、中東やイスラームの近代史でなじみの深い帝国主義問題も、市場における独占的競争の問題を媒介にして提起されてくる。だが、先回りする前に、さらに資本主義について考えてみよう。