::::: 3. イスラームと資本主義 :::::


(1) イスラームと資本主義

 イスラームと資本主義との関連については、ロダンソン、グラン、バインダーらによって、明確な問題提起がなされ、1960年代以来、すでにひととおりの議論がされている[ロダンソン 1978,Gran 1979,Binder 1988:206-242,岡野内 1995]。そこでの結論は、イスラームが資本主義の発展を阻むとか、促すとかいった、両者の間の特にきわだった関連を設定することはできない、ということであった。中東地域やイスラーム教徒の多い地域の資本主義の特殊性の問題は、宗教以外のより一般的な原因によって、説明されるべきというのである。そして、実際、多くの経済研究者は、中東地域あるいはアジアのムスリム地域の経済発展や経済構造を研究するにあたって、イスラームという要因に正面から触れることなく分析を進めてきた。
 けれどもバインダーも言うように、イラン革命以降のいわゆるイスラーム原理主義の台頭、そしていわゆるイスラーム経済論の新しい興隆によって、従来のような近代化にとってのイスラームという問題状況ではなく、近代化への代替案とイスラームという問題状況の中で、イスラームと資本主義の関係について考えることを促される状況が再び生まれてきた[Binder 1988:206-207]。
 イスラーム経済論は、封建制とも資本主義とも社会主義とも異なる経済体制として、イスラーム経済というものを提示し、そのような経済体制への移行を訴えるという基本的な発想をもつ。それは、この意味でユートピア的である。しかしイラン、サウジアラビア、パキスタン、リビアなど、イスラーム国家を標榜する政権は、実際に「イスラーム経済体制」をめざす経済政策を採用していった。それじたい多様なイスラーム経済の理念が、どのように多様な、多かれ少なかれ資本主義的で、世界経済の趨勢に対応しうるような「イスラーム経済体制」へと帰結していったかについても、すでにいくつかの研究がある[Nomani&Rahnema 1994など]。他方で、世界経済の安定と非軍事化を展望するという見地から、大量の石油輸出を余儀なくさせ、結果的に石油価格の低迷をもたらすような、巨額の軍事費を費やす抑圧的・浪費的な現中東産油国政権を批判し、それにとってかわるような、イスラーム的平和主義と禁欲の論理に裏付けられた政権と経済政策を望む議論も現れてきた[Noreng 1997]。
 こうしてみると、研究の趨勢は、独自なイスラーム経済体制の可能性を検討することよりも、世界経済の全体を市場経済化さらには資本主義化してやまない多国籍企業中心の世界経済の力を前提にして、イスラーム的なコトバを用いた社会運動の現れ方を、「ムスリム政治」として研究する方向に移ってきたといえるかもしれない。[Eickelman&Piscatori 1996]。
 多国籍企業全盛時代の今日の世界経済は、すぐれて資本主義的である。このことに異論のある人はほとんどあるまい。けれども資本主義ほどあいまいで多義的であり、さまざまの議論を生んできたことばもないであろう。経済のみならずあらゆる面でいわゆるグローバリゼーションが進行する今日の状況のもとで、イスラームと資本主義について混乱を回避しつつ考察するためには、資本主義ということばが意味するものについて、やや突っ込んだ分析が必要であろう。
 とはいえ、筆者はここでは、本稿の問題提起である、市場がゆらぎをみせる場である、奴隷・不自由労働・自由な賃金労働の労働力市場との関連で、市場と親和的な宗教、イスラームとかかわりあいそうな問題点に限って、資本主義を考察するにとどめたい。



(2) 市場と資本

 資本主義とは、端的に言えば、市場を通じての「金もうけ」の論理である。なおこの場合の「金もうけ」とは、市場に投じられた「もとで」のお金が殖えて、「もうけ」が得られることを言う。このようにして、「もうけ」を得た、あるいは得ることを期待された「もとで」は、資本と呼ばれる。市場を通じる金もうけとしての資本主義は、資本主義のもっとも広い概念である。
 金もうけの仕方の違いによって、商人資本、利子生み資本、産業資本など、さまざまな資本のカテゴリーが区別されてきた。さらに、遠隔地商業と奴隷制が優勢な時代の古代資本主義に対して、自由な賃労働に基づく工業が優勢になった時代の資本主義は、産業資本主義あるいは近代資本主義などと呼ばれてきた。個別の資本の動きを取り出して考察する場合には、資本主義はきわめて明確である。
 資本主義のやっかいさは、しれが、市場経済と絡み合って現れてくることにある。逆に言えば、市場での商品交換を通じて社会的分業の結果である生産物の配分を行うしくみという意味での市場経済は、金もうけの、資本の論理だけで動いているのではない。たとえば、賃労働はそうである。労働者が賃金を受け取るために働くことが、比喩的な意味で「金もうけ」と呼ばれることがあるにしても、また労働者の頭が、金もうけの論理でこりかたまっていたとしても、労働者が賃労働によって「金もうけ」をすることは、原則として不可能である。労働者との取り引きで、市場に「もとで」のお金を投じて、「もうけ」をつけたお金を回収するのは、資本家のほうであって、労働者ではない。労働者は、自分の労働力の時間ぎめの処分権を売って、その対価として資本家から、再び自分の労働力を回復させるのに必要なものを購入するためのお金を受け取るだけである。賃労働は、このように、金もうけの論理とは異なるという点で、資本とは明確に区別されるべきであって、この点は、市場を資本主義に引き付けて考え過ぎないための、重要な論点である。もっとも資本は、とりわけ産業資本は、この賃労働に立脚して登場し、発展するのであるが。



(3) 資本の循環

 イスラームが親和性を見せる市場なるものと、売り買いという個々の市場取り引きを通じて独自な発展を遂げる資本主義との関係を考えるにあたっては、市場における資本主義の様相を明確に把握しておく必要があろう。
 市場を媒介にする資本の動きの奇妙な性質を、エンゲルスの編集による『資本論』第二巻でのマルクスの資本の循環に関する議論抜きに説明することはむずかしい。それは、アダム・スミスというよりは、ウィリアム・ペティ以来、リカード、ミルにいたるヨーロッパの政治経済学(Political Economy)の諸理論の視角の違いを整理するうえでのひとつの要点でもあった。そこで、ここでは、『資本論』のみならず『剰余価値学説史』をも含むマルクスの経済学史上の労作に敬意を表し、その議論を借用しよう[マルクス 1968:第2巻]。
 
第1図を見よう。そこでは、ドイツ語の略号を用いてある。そこでは、市場にやってくるある商品所有者の商品の価値がどのように姿をかえていくかを、この略号で示したものである。この商品所有者は、自分のもつ商品を売って得たお金で、生産手段(すなわち機械あるいは道具からなる労働手段および原料)と労働力とを買い入れ、それらを用いてさらにある商品を生産して販売し、利潤を得ようともくろむ産業資本家である。
 アダム・スミスらの古典派政治経済学からマルクスに至る経済論のおもしろさは、市場に現れる商品を常に、それを得るのに必要な労働に立ち返って見つめる、そのまなざしである。商品の価値がそれを生産するのに必要な労働によって決められるとする労働価値説の人間観を、単に交換において自分の利益を極大化するように合理的に行動するホモ・エコノミクスだとするのは、皮相な解釈といわねばならない。労働価値説における人間は、常に自然に対して裸一貫で、しかも基本的には一人で立ち向かう。どんな種類の労働であろうと必要ならばそれを行い、労働手段も原料も、どんなものであろうと、自然からそれを創り出そうとする。一人で自然に立ち向かう時に痛感される、一人の人間の力の限界。このような自然の厳しさと、人間の主体的な力の限界の認識を基礎に、労働の尊厳の念が生まれる。他人の生産物を見るとき、苦労人には、それを作るのがどれほど大変かがわかるという。自分が苦労したことがあるから、他人の苦労に思いをはせ、それを尊重することができるのである。第1図は、表面的な商品や貨幣などの形で表される価値の姿の変化を示すだけのものである。けれども、ここでの「価値」は、自然に立ち向かう人間の一定量の労働のかけがえのない成果として、人間の世界にもたらされたものとして、自然に対置されている。このようにして、過去の労働の成果は、自然の厳しさを知る苦労人の厳しいまなざしに晒されていると考えていただきたい。
 いちばん左端のW−G−W(PmおよびA)の変化は、市場で行われる。そこでは、等価交換が行われることが想定されている。資本家が所有する価値の大きさは変化しない。ある商品の姿が貨幣の姿になり、また別の商品(生産手段と労働力)の姿をとっただけである。「・・・P・・・」によって示される生産過程は、市場の背後にある。そこでは、労働力(主体的な自然)を生産手段(すでに労働によって変形を受けた客体的な自然)に対して適切に用いる生産活動、すなわち労働が行われる。このように労働力を用いる労働者の適切な活動(労働)によって、生産手段の価値が保存されて生産物に移転されるばかりでなく、労働力の価値に匹敵する価値と、労働力の価値を越える価値が付け加えられる。その結果、生産された商品の価値W’(Wおよびw)は、生産過程に入る前の商品の価値W(PmおよびA)よりもW分だけ増加することになる。いうまでもなく、価値が増加した商品W’は、労働力と生産手段を購入して生産過程を監督した資本家のものになる。生産手段の売り手に生産手段の価値を支払ったように、労働者に対してもすでに、労働力の価値は支払い済みである。
 ここで資本家は再び市場に登場する。以前には商品Wの所有者として市場に現れたこの産業資本家は、今度は商品W’の所有者として現れ、それを売り払って貨幣G’(Gおよびg)を手に入れる。ここでも等価交換が想定される。交換に際して、価値の大きさは変化しない。市場では等価交換のみが行われ、この産業資本家は、2回目に市場に現れた時には、自分の商品を売り払って、貨幣の形での利潤gを手に入れることができた。単純再生産を前提にすれば、この資本家は、利潤gの全額を支出して、生活必需品および奢侈品からなる商品wを購入し、自分で消費してしまうことができる。他方で、Gの価値は、1回目の市場での時と同じように、PmおよびAからなる商品Wの購入にむけられねばならない。拡大再生産を前提にする場合には、gの一部がさらにPmおよびAに支出されるだけである。
 こうして、この産業資本家は、再び生産過程を適切に管理しさえすれば、生産過程の終わりには、価値が付加されて再び利潤になるw部分を含むようになった商品W’をもって三たび市場に現れることができるのである。
 なお、産業資本家による労働力Aの購入は、労働者の側からみれば、貨幣の獲得であり、獲得された貨幣はすぐに、生活必需品の購入によって消えていく。それは、A−G−W・・・Aという形で現すことができる。生活必需品Wの消費によって、労働力Aが再生産され、再び労働者は、労働力Aを販売することができるようになる。もちろんここでは価値が殖えることはない。
 こうして、商品Wを起点として見た価値額は、第1図が示すように、この資本家が最初の市場から次の市場に登場するまでの間にW’へと、価値額を増加させるという運動、すなわち資本としての運動を、循環的に繰り返すものとして示すことができる。このような価値の流れの運動は、WW循環あるいは商品資本循環と呼ばれている。
 けれどもさらに、第1図の起点を少しずつずらしていくと、貨幣Gを起点として、G’に至る価値の増加運動の繰り返しとして見ることも可能であろう。これは、GG循環あるいは貨幣資本循環と呼ばれる。さらに起点をずらして、生産過程Pまで持っていくならば、PからPへと至る循環的な繰り返しを見ることも可能であろう。これは、PP循環あるいは生産資本循環と呼ばれる。
 第1図に示されているのは、同じ産業資本家が所有する価値の姿の変化であり、そのような価値の姿の変化を通じて、価値が増加していくという運動が繰り返されるだけである。ところがおもしろいことに、どこを起点にこの価値の増加の繰り返し運動(資本循環)を見るかによって、この運動からわれわれが得るイメージは、ずいぶん違ってくる。