● キューバと日本 ● 西岡 大輔


私が予想していた以上にキューバの国民にとって日本が心理的に近いことに驚いた。
1994年ごろ、「おしん」がキューバで放映されたらしく、おしんの事を知っている人が多かった。また、模擬刀の件ですっかりお世話になった税関職員は黒沢映画に詳しく三船のことを知っていたり、座頭市も見たことがあるようで勝新太郎ことも知っていた。
ハバナ市内にあるアジアの家ではアジア各国の催し物を行うが、なかでも盆栽のワークショップなどの日本関連は人気が高いそうだ。

キューバ国民をも泣かせた「おしん」―日本ブームがキューバに巻き起こったのは1994年ごろ、キューバで放映された「おしん」が火付け役となった。「おしん」の苦労話は物資不足、水不足、停電などに耐えていたキューバ国民の共感を集めた。一度も見たことのない雪のシーンに、おしんはどんなに寒かったろうか、とキューバ人が話しているのが、日本人にとってはなんとも不思議な感じだ。その後「いのち」も放映され、これまた好評を博した。出演者のひとり石野真子がキューバを訪れた際、彼女の人気ぶりは相当なもので、「キューバでこんなに有名なんて」とうれしい悲鳴をあげていた。

私が思い浮かべる独裁者の典型的なイメージはかつてのソ連やフセイン体制の頃のイラクや現在の北朝鮮のような民衆が上からの力に縮こまってしまっているようなイメージだ。広場の中心に権力者の立像を、写真があちこちに掲げられている寒々しい光景である。しかしキューバには、そういった雰囲気はなく、開放的だった。街にチェ・ゲバラの顔が描かれていたり、ホセ・マルティの立像があったり、VIVA FIDELと書かれてあったのは見たが、フィデル・カストロの銅像や写真は見なかったし、カストロがプリントされた紙幣はない。インティが言っていったのだが、カストロ自身がそのような偶像崇拝の行為を法律で禁じたのだそうだ。
しかし、キューバ人と話しているとカストロのカリスマ性は非常に強いことや彼への信頼や尊敬の念が感じられた。既に高齢であるカストロが死去することは遠い未来ではないだろう。その時、この国はどうなるのだろうか?アメリカとの関係は良好なものになるのだろうか?ますます貧富の差が大きくなるのかもしれない。学校に行けなくなる子供も出てくるのかもしれない。

カストロが執務している革命宮殿は120万人が集合可能な革命広場の一角に在る。その革命宮殿の前方直線上にホセ・マルティ記念館があり、112.75mのホセ・マルティ記念塔が建っている。記念塔の側に片膝をついて思索に耽る、高さ18mの大理石のホセ・マルティの彫像がある。この彫像から広場を跨いだ正面直線上の内務省の壁面いっぱいにチェ・ゲバラのネオンサインのレリーフがつくられている。つまりカストロはすぐ目の前にキューバの国父ホセ・マルティを仰ぎ、キューバ革命に半生を投じたアルゼンチン人の盟友チェ・ゲバラに恩義を捧げながら日々の仕事を行っているのである。

キューバを訪ねると、街のいたる所に音楽があふれているのに驚かれるだろう。レストランやバーに入れば、必ずといっていいほど小編成の音楽グループがソンやボレロなどを奏でている。
 オールド・ハバナなどを歩いていると、どこからかサンテリーアやルンバなどのパーカッションのアンサンブルが聞こえたり、ダンス・バンドの練習の音が漏れてきたりする。キューバ人は、喜怒哀楽すべてを音楽で表しているのではないかと思うほどだ。



● キューバの歴史 ● 西岡 大輔


<コロンブスに“発見”された楽園>
キューバは1492年10月27日、コロンブスの第一次航海のときに“発見”された。当時、島には先住民がいたが、スペインの植民地化が進むとともに絶滅の道をたどっていった。スペイン人によるキューバの植民地化は同時に砂糖産業、奴隷産業を盛んにし、キューバはスペインと中南米の中継地点として著しく発展を遂げることとなる。19世紀初め、それまでスペインの専売だった葉巻の販売が自由化されると、キューバは砂糖に加えて葉巻の通商でも富を得るようになり、キューバ国内ではしだいに独立の気運が高まってくる。

<スペインからの独立、アメリカ軍政下へ>
1868年10月10日、第一次独立戦争勃発。1895〜98年にかけてはホセ・マルティ将軍を中心とした第二次独立戦争が起こる。混乱の中、1898年2月に米西戦争が勃発。米側の勝利の結果、1898年12月10日、400年にわたるスペインの支配下からキューバは独立し、今度はアメリカの軍政下に入る。1902年5月20日キューバ共和国成立。しかし、キューバの富はアメリカの富豪とごく一部のキューバの上流階級により吸い上げられ、庶民の生活は苦しかった。1952年に独裁者バチスタ政権が樹立すると、貧富の差はさらに広がる。翌53年、フィデル・カストロは150名の同志とともに、バチスタ政権を倒すために蜂起。しかし、捕らえられメキシコに追放される。

<カストロとチェ・ゲバラによる革命>
1956年12月、カストロは再びチェ・ゲバラなどの同志とヨット「グランマ号」に乗りキューバ上陸をはかるが事前に発覚。山中に逃げ込みゲリラ戦を展開しながら勢力を拡大し、1959年1月1日、ついに革命政権を樹立した。カストロ新政権は政治の民主化を称えるとともに、文盲一掃運動、医療の無料化、教育の無償化、土地の国有化、企業の国営化などをすすめ、社会主義国として多くの問題に直面しながらも、独自の国家を作り上げてきた。しかし、ソ連崩壊後は世界から孤立した状態となり、アメリカの経済封鎖は極度な物不足へとキューバ国民を陥れた。それに対し、キューバ政府はドル獲得の手段として観光に力を入れるなどして、この苦境をなんとか乗り越えてきた。キューバは今、社会主義の精神をもちつつも、世界の大きな波に押され、経済および人々の暮らしは大きく変わろうとしている。



● キューバの人種 ● 小笠原 美幸


キューバには様々な色の髪・肌を持った人たちがいます。ブロンドの髪の人もいれば、黒髪の人もいて、白い肌の人もいれば、黒い肌のひともいる、といった感じです。そして白人と黒人の混血であるムラートと呼ばれる人たちもたくさんいて、その肌は、白に近い肌色から黒に近い肌色まで様々です。このようなキューバ人の多様性はキューバの混血の歴史・キューバという国がたどってきた歴史を、そのまま表しています。

キューバは、1601年にコロンブスによって黄金の国ジパングと間違えて発見され、スペインによって入植されました。その際、キューバにすんでいた原住民はスペイン人によって絶滅させられました。そしてその後、4世紀ほどスペインの植民地となります。
その間に、コーヒー農園などの労働力としてアフリカからたくさんの黒人奴隷が連れてこられました。1898年のスペインからの独立戦争の時には、アメリカが介入し、独立後の約60年間はアメリカの植民地となりました。
また、キューバではアジア人はあまり見かけませんが、19世紀になると中国の広東省から労力(クーリー)と呼ばれる人々が移民してきます。現在では、中華人街をつくるなどして暮らしています。
このように、キューバ人は、スペイン、アフリカ、そしてアジアにルーツを持っています。日本人も少数ですが移民しており、1998年には、日本人のキューバ移民100周年を迎えました。キューバの空港でお世話になった日本語ガイドさんも、日系2世で日本人とキューバ人のハーフの方でした。

いまでもキューバの街にはスペイン様式の建物が多く残り、黒人の音楽や宗教はキューバにおいて独自の発展を遂げました。人々の生活や文化・芸術にはスペイン・アフリカの影響が見受けられます。キューバで盛んな有機農業も、アメリカからの経済封鎖を受けた頃、労力(クーリー)がキューバ人に教えたものです。彼らの作る中華料理もキューバの人々には人気があります。またアフリカに起源を持つキューバは、アフリカへの医療援助などもしています。もともとは黒人奴隷として連れて来られたアフリカの人たちも、革命後には平等に扱われるようになりました。
スペインとアメリカに入植されたキューバですが、意外なことに、スペイン人とアメリカ人に対して敵対的な感情は持っていないそうです。もちろん歴史的背景は忘れてはいないが、国を憎んでも、人は憎まないのがキューバ人なのだそうです。



● キューバの言葉、現地の人たち ● 八木下 優里


<未知のスペイン語>
キューバの公用語はスペイン語です。ほとんどの参加者が、スペイン語は全く未知の言葉であったために、出発前にアルゼンチンからの留学生、ゆういちさんにスペイン語を少し習いました。「エンカンターダ!(はじめまして!)」や、「メリャモユリ(私の名前はゆりです)」、「テンゴアンブレ(おなかがすいたよ)」などは、キューバの人たちとコミュニケーションをとる一歩としてとても役に立ちました。ただ、付け焼刃の私のスペイン語では会話とよべるようなものはできませんでした。

<陽気なアルマンドさん>
そんなときに私たちの強い味方だったのは、現地通訳のアルマンドさんです。アルマンドさんは、キューバでは数少ない日本語が話せるガイドさん。その日本語はたまに微妙だったけど、アルマンドさんのお陰で私たちがキューバについて学べたことはとても増えたと思います。私は「メピコウモキート!(蚊に刺された!)」という言葉を教えてもらったり、靴に入った蟻を2回も退治してもらったりしました。アルマンドさんは今回の旅になくてはならない存在だったと思います。

<キューバのおじいちゃんたち>
ICAPにいる間、農場で働くキューバ人のおじいちゃんたちと触れ合う機会が度々ありました。例えば、食堂で順番待ちをしている時。おじいちゃんたちは、私たちがスペイン語を話せないと知っても、すごい勢いで話かけてくれました。そんなときによく、目にすごいクマのあるちょっと怖そうなおじいちゃんが英語で通訳をしてくれました。でもそのおじいちゃんは、いつも途中で疲れてぐったりしてしまいます。それでも、おじいちゃんたちとの会話は続き、数の数え方と「カラワッサ(かぼちゃ)」という言葉を教えてもらいました。おじいちゃんたちによると、かぼちゃを食べると、足が太くなって体が丈夫になるそうです。

<素敵な夫婦>
カイミートの町に行ったとき、見ず知らずの外国人の私たちを家の中に入れてくれて、扇風機を持ってきてくれたり、冷たい水やキューバコーヒーを出してくれたりしました。二人は、1つの老眼鏡を交互に使っているところがチャーミング!何度も、耳が聞こえないことを謝っていたけど、私たちには全く分からないスペイン語で話されるよりも、ジェスチャーに近い手話で話してもらったほうが、何倍も分かりやすかったです。それまでは、言葉がしゃべれなくて落ち込んだり、寂しくなったりすることもあったけど、言葉を超えてキューバの人とコミュニケーションがとることができて、夢みたいな時間を過ごすことが出来ました。